気遣いをいつ学ぶか
こんばんは、紺野うみです!
最近、よく思うんです。
現代社会を生きる人は、「気遣い」をいつどこで学べるだろうか? ってね。
私はよく心理学の方の記事で「自分の心を大事にしましょう」、としきりに書いています。
でも、一見矛盾しているようですが、「人をの心を大事に」するっていうことも、心ある人として生きていくには、絶対に欠如させてはいけないと思うんです。
いかに「私」の欲を殺せるかも、たしかに重要なこと。
それは、世界は自分一人のために存在しているわけではないので、当たり前のことなのですが。
どうにも、どちらかに偏ってしまいがちなのが人間かもしれません。
自分のことも、他人のことも、同じように「大切にできる」「愛することができる」、こういう心を育てないといけないと思うんです。
私は、多分これまでの半生の中で、まず一度徹底的に「滅私(自分を抑え、殺すこと)」を学ばせてもらったんだと思います。
(言葉が古いんですけど、「滅私奉公」とかの滅私ですね。笑)
でも、それで自分を大切にすることを忘れてしまっていた。
それで改めて、自分の心を大切に……と言い聞かせるようになったのです。
でも、今の世の中を見ているとどうにも、「私が私が!」という主張が強く、周りがどう感じるか? といった「気遣い」の感覚が薄くなっていってるような気がして。
そんな場面を目の当たりにしてしまうと、やっぱり哀しくなるわけです。
今の世の中を生きる人たちは、「気遣い」をどのように学べばいいのでしょうか?
これはもちろん、いろいろな方法があることと思います。
答えは決まってなどいません。
でも、できるだけ忘れずに、日々考えていくべきテーマですよね。
たぶん、世の中で生き生きと輝いて人からも一目置かれるような方は、自分のことはもちろん、他人のことも「気遣い」を忘れず大事にしていると思います。
要は、そのバランスや、その瞬間にどちらのことをしっかりと考えるべきかというのを、よく見極める目を持っているのでしょうね。
人のことをよく見て、周りの人が気持ちよくいられるようにする。
そういう「気遣い」をすべての人が無くしてしまったら、もう世の中荒みきって、メチャメチャになってしまう。
「気遣い」というのは、人の「優しさ」や「強さ」、自分への「誇り」があってこそ成せるものなのではないでしょうか。
私が考えるに、時によって自分より相手を大切にするということは、巡りめぐって自分の心を「優しさ」「強さ」「誇り」というものを通じて大切にしていることだと思います。
私には、ありがたいことに「気遣い」に関して、周りにたくさんの素敵なお手本がいます。
その方々の言動を「あぁ、素敵だな~」としみじみ噛みしめることで、ずいぶん勉強させていただいてます。
まずは、そんな風に素敵なお手本を見て学ぶこともよいかもしれません。
自分の心の辞書に「気遣い」の言葉が深く刻まれる、その日まで。